庄五郎のあゆみ

明和7(1770)年、小西庄五郎漆器店の初代庄五郎は、13歳から塗師の元へ弟子入りしたのち22歳で独立して漆器業を営み始めました。
創業以来、家具膳、料亭や旅館で使われる漆器、日本郵船や大阪商船会社といった客船内で使われる什器や調度品の製作・販売・修理を行ってまいりました。
現在は、料亭・割烹・和菓子などの店主様からのご注文や、個人のお客様へ向けて、お椀をはじめ様々な器をお作りしております。

江戸時代から伝わる沢山の見本椀と、先人の技術を大切にしながら、今のお客様の要望に丁寧に寄り添って、長年にわたり安心してお使いいただけるよう心掛けております。

250年以上にわたり漆芸の道を歩み続けることができたのは、これまで小西庄五郎を信頼してくださった方々のおかげです。
感謝の気持ちを込めて、手間を惜しまず塗り上げた漆の器を、みなさまへお届けしたい。漆のあたたかさ美しさに触れて、心が安らぐ時間を過ごしてほしい。
これからも誠実なものづくりでみなさまのお役に立てるよう努力してまいります。


寛延元(1748)年〜文化2(1805)年 58歳

宝暦11(1761)年13歳にて小西茂左衛門に髹漆(きゅうしつ。漆塗りの技法)を習う。
22歳頃に独立ののち、庄五郎と名乗り漆器業を営む。
享和2(1802)年54歳、新たに住宅を定め、蔵を造る。
現在の輪島朝市通りの店舗住所の位置と同じ場所に構えていたことが江戸時代の地図に記されています。

「享和元年 小西庄五郎」と墨書きされた、漆を攪拌するクロメ桶と呼ばれる容器。
当家に残されていた、お椀の木地を挽く道具、二人挽きロクロ(年代不詳)。明治時代以前に用いられていた。

天明6(1786)年〜明治4(1871)年 86歳

文政年間(1818〜1831年)、京・大阪方面に行商し、同業の松屋伊兵衛と共に「椀講(わんこう)」を始める。

椀講とは

現在でいうクレジットカードのような年賦での購入方法。
行商先で10人ひと組の顧客グループを募り、商品価格の10分の1を各人が支払い、商品は毎年抽選で1人ずつ、10年にわたり納品されるというものです。
顧客にとっては求めやすく、塗師にとっても安定した需要が見込める合理的なもので、椀講によって輪島塗の行商が一挙に拡大しました。

文政11(1828)年、交流のあった京都の幕末の三筆の一人、貫名海屋を訪ね、初代の人柄を偲んで墓碑銘の揮毫を請い、墓碑は翌年1月15日建立された。

現在も受け継いでいる小西家代々の墓

弘化4(1848)年に隠居。
俳諧や狂歌を好む趣味人でもあり、隠居後、松尾芭蕉の奥の細道の道順に沿って江戸や東北などを周遊し「吾妻日記」と題した旅の日記が残されている。

関東歴遊中の旅日記「吾妻日記」の1ページ
2代庄五郎直筆の絵や俳句など

文化7(1810)年〜明治22(1889)年 79歳

男児が生まれなかったために三代松屋伊兵衛(中江伊兵衛)の七男、武八を長女八重の婿に迎える。
嘉永元(1848)年、遐福講の年行司を務める。
旅の日記「西遊記」を記す。

「安政7(1860)年 西遊記」と記された旅日記

天保4(1833)年〜明治29(1896)年 63歳

慶応3(1867)年10月輪島町塗師講頭を務める。
明治9(1876)年 および明治10(1877)年遐福講の年行司を務める。
明治16(1883)年輪島漆器製造会社(資本金3,000円、90人)を設立。
明治維新となり、国策として殖産興業にも積極的に参加、石川県で最も早い時期に創立された4つの会社のうちの1つ。
明治33(1900)年2代庄五郎の考案した「椀講」を発明した功績により農商務大臣より金五円を追賞される。

昇光丸、明治丸の2つの船を所有し、輪島港から大阪へ航路で輪島塗を納入していた。

船往来手形。藩外に出る際に“身分証明書”となるもの。船頭の名前、乗員数などが書かれています。
江戸時代に使用していた銭箱。片方に「銭 小 箱」、もう片方には「三十之内」とあり、30個あった銭箱の一つ。

明治16(1883)年、金沢博物館創設10年紀開館施行の尽力につき石川県令より謝状を賜り、翌年以降に見本品数点を献納する。
明治17(1884)年、岩手県勧業博覧会2等賞。

明治17(1884)年、岩手県勧業博覧会2等賞のメダル

明治23(1890)年、第3回内国勧業博覧会(京都)褒賞。
その他、国内の博覧会へ盛んに出品を重ねる。

三女・宇能は時國甫太郎(時國家)に嫁ぎ、麒麟麦酒株式会社を創始した時國益夫の母となる。


安政3(1857)年〜昭和16(1941)年 84歳

明治27(1894)年に輪島漆器製造会社を輪島漆器製造小西会社に改組する。
明治37(1904)年に漆器製造合名小西会社と改称を届け出る。
明治41(1908)年5月〜大正6(1917)年7月まで9年2ヶ月間、輪島漆器同業組合長を務める。
大正7(1918)年〜大正10(1921)年に輪島町長を務める。

神戸市に支店を設ける。
日本郵船、大阪郵船会社と輪島塗納入の指定業者となり、外国航路船舶に使用する食器その他調度品を制作納入する。
大正4(1915)年パナマ太平洋万国博覧会(サンフランシスコ万国博覧会)で手袋箱を出品。入賞し銅メダルを獲得する。

大正4年に出品した手袋箱と褒賞のメダル。
沈金で、金をあえて入れず彫りの技を魅せる素彫という技法で、猿と松の枝が描かれている。

環洲の号をもち、書と俳句に長じる。
数多くの紀行文、作詩、句会の選者として足跡を残し、晩年は環洲流の書風で一派をなした。

小西祐三郎(環洲)喜寿の記念写真

明治23年(1902年)〜昭和27年(1952年) 63歳

男児が生まれなかったため、奥原政右衛門の五男、峻を四女ぬひの婿に迎える。


大正8年(1918年)〜平成2年(1990年) 72歳

京阪地方での料亭・割烹・料理旅館へ販路を広げる。
朝市の自宅兼工場に店舗を構える。


昭和26(1951)年〜

平成2(1990)年に株式会社小西庄五郎漆器店を設立する。

主に関西方面の料亭・割烹・和菓子などの店主様からご注文をいただき、お椀をはじめ様々な食の器を製作。
朝市店舗・通販サイトにて、個人のお客さまへ日常使いのお椀から調度品まで幅広い品揃えで販売を行う。

令和6(2024)年1月1日能登半島地震による大火災で、店舗兼住宅、土蔵、工房、営業車、商品のほとんどが焼失。
朝市店舗は現在休業、再建に向けて奔走中。
関西方面への営業は再開。
地震後に少しずつ製作を開始、通販サイトをリニューアル。

令和6年1月1日の能登半島地震による火災
まだ煙が立ちのぼる火災の翌日
緑の屋根が当店舗
店舗1階の焼け跡
奇跡的に火災を免れた煤だらけのお椀